みなさんへ
公式ホームページ立ち上げてから、ほとんど更新する機会がなかったのですが、近況報告もかねて、みなさんにメッセージをお伝えしたいと思います。
最近、アエラ・ムック『姜流(かんりゅう)』(朝日新聞出版)を出版しました。「OFFな一日」などと称し、しかもDVD付で、内心、気恥ずかしい感じがしないわけでもありません。
この企画について相談された当初は、さすがに戸惑いを覚えましたし、タイトルも、「韓流(ハンリュウ)」に便乗しているようで、やや抵抗感すらありました。
でも、途中で考え直し、最終的にゴー・サインを出しました。それにはふたつの理由があります。
ひとつは、最近、ますます我が道を行くという心境になり、それをあえて言えば、「姜流」ということなるのではないかと思うようになったからです。わたしがいろいろなメディアに身をさらしていることについては、好感を持つ人、抵抗感をもつ人、さらに嫌悪感をもつ人と、いろいろあると思います。
それらの様々な世評を十分認めた上で、それでも『姜流』を出すことに同意したのは、これをひとつの区切りに我が道を行こうと決心したからです。それがどこに向かうのか、きっと多くの読者や視聴者の方々に理解される時が来ると思います。
もうひとつの理由は、百回におよぶ雑誌『AERA』の連載「愛の作法」を記念する出版物として、こうした形のものもありうるのではないかと思い立ったからです。
一週間に一度の割合で連載されるコラム。
思い返すと、その内容には粗密があり、濃淡があります。しかし、どれもみな、その時々のわたしなりの感性や省察を反映し、そして同時に世相を映し出していると思います。そのほぼ二年にわたるコラムを読み直してみると、わたしが、そして時代が求めていたもの、それは「愛」ということになるのではないでしょうか。
「愛」などという言葉は、気恥ずかしくて軽々しく使えるものではありませんし、何を隠そう、そのような言葉を乱発する人間をわたしはむしろ嫌悪していたと言ってもいいかもしれません。
しかし、最近、学生時代に愛読していたトルストイの本を読み返すようになり、とくに『文読む月日』(北御門二郎訳、ちくま文庫、上・中・下)を読み進めるうちに、一切の虚飾、一切の思弁、一切の意匠をはぎ取った後にトルストイが発見したもの、それが「愛」にほかならないことを改めて痛感したのです。
そう言えば、漱石とともに、わたしに最も大きな影響を与えたウェーバーが、晩年、格闘した問題は、学問は「生きる意味」を教えてくれるかどうかというトルストイ流の問題提起でした。
トルストイに言わせれば、「生きる意味」は、学問――科学や技術によってではなく、すべての宗教の本質である「愛」によってのみ応えられることになります。
それでは学問は、とりわれ社会科学は、余計なものに過ぎないのでしょうか。所詮、それは専門家たちの衒学的な隠語の世界に過ぎないのか。この問いにウェーバーは生涯を賭けて答えようと努力しました。
大学にいる者としては、わたしはウェーバーの世界の住人です。しかし、現在を生きる者として、トルストイ的な「愛」という問題を抱え込まざるをえません。
もしこの「愛」を、誤解を恐れずに、「人倫」や人間と人間の「きずな」と言い換えれば、「愛」の意味がよりわかりやすくなるかもしれません。
結局、この二年に及ぶ「愛の作法」という連載で、わたしは、人々が人と人との「きずな」を求めている、その痛切な願いを何度も痛感することになったのです。
自由を、独立を、自己(おのれ)を恣にしながら、どうしてこんなに孤独で不安なのか。そんなやりきれない声が、そこかしこから聞こえてきそうです。社会が傷み、政治が閉塞していくのも、根っこにはそうした問題があるからではないでしょうか。
そう考えていくと、連載百回を記念する『姜流』を出すことにはそれなりの意味があると思います。
それに滅多にお会いできない多士済々の人々との対談や各界の知人のコメントを掲載した『姜流』は、やはり是非読んでいただきたい本です。どうぞ一読をお願いします。
なお、最近、政治学をはじめ、社会科学の限界のようなものを強く意識するようになりました。その世界を極めてもいないのに、生意気な言いようですが、そう感じられてなりません。正確に言えば、限界というよりも、わたしが言いたいことを表現する方法として、何か物足りないものを感じるのです。
それに対して、最近では文学により惹かれるようになりました。というか、文学と政治学の接点のようなものを再び、考えてみたいと思うようになったのです。
そんなわけで、近い将来、フィクションともノンフィクションともつかいものを書き上げてみたいと思っています。手始めに、来年4月、雑誌『青春と読書』(集英社)に連載してきた「母(オモニ)」を出版する予定です。その後、一年かかるか、二年かかるかわかりませんが、わたしの畢生の作品となるかもしれない――こう言うと大袈裟ですが――メルヘン風の物語を書くつもりです。それは、対話形式の作品になるはずです。それがみなさんにどう受け止められるのか、見当もつきませんが、絶望のなかの希望、「生きる意味」を、ギリギリのところで語ってみたいと心に決めています。
どうか今後も、わたしの新刊書に目を通していただき、みなさんのご感想などをお寄せ下さい。(2009.8.20)